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コラム&エッセー
2021/07/30
エピソード
「杖使ってまた歩きてぇんだ。」
ある日男性ご入居者様のNさんが私にこう言った。
ご入居された当時はまだ、ホーム内で杖を使って歩かれていたが、その後左半身が不自由になり、現在はほぼ車椅子の生活となっている。移動は、車椅子を右足で器用にこぎながらだ。
「それでも杖の方がいいなぁ〜。」と、寂しげな笑頻で言われる。「だって、杖使って歩けたら家で暮らせっぺ、なぁ?」
この日から、Nさんの希望に応えるべく取り組みが始まった。
普段からあまり体を動かされないNさん。体重八十キロの巨漢である。ご自分でも「ちっと、運動しねえとな。」と言われている。
そんなNさんに、運動としてフロア内の手すりの掃除をお勧めした。「おっ!あれなー、Iさんがやってたやつか?おれにも
できっか?」
そうは言われるものの、やり始めると右足でこぎ進めながら、ゆっくりではあるが、思いを叶えるべく雑巾を持つ右手で手すりを拭いていく。
そんな姿に、「Nさん、ありがとうございます。」と感謝の言葉をお伝えしながら、深々と頭を下げる。
すると、「やめろ、やめろ、大した事やってねえんだ。自分のためだ。そんなに頭下げんな、安くねえんだから。」と、照れながら手を振られる。
そのNさんは神経痛があり、雨や寒い日などは頭の痛みや腰の痛みで、手すり拭きができなくなってしまう。
そんな時は、「無理しないで。」
「今度調子のいいときに。」と伝えると、
「明日はやるからな。せっかく言ってくれたんだ。」と
申し訳なさそうに言われる。
また、煙草が好きなNさんは、食後に一本やるのが楽しみである。「これをやれば、家さ行げんな!」と笑顔で言われる。そうして、手すり拭きに加え、喫煙時の歩行訓練も行うようになった。
「もうやめた。だってよ、少ししか歩けねえしよ。無理だ。家さ行げねえ。」
ある日突然Nさんが寂しそうな顔で言い出した。
「Nさん。私は、Nさんが決めたならそれでいいです。ただ、「家で暮らせっぺ!」と言ったときのNさんの言菜も忘れられないんです。
Nさんが頑張っている姿には、私も励まされたんです。まだまだ時間はかかるでしょうが、騙されたと思ってもう一度やってみませんか?」
そっぽを向いていたNさんは、そのままの姿勢で、「騙されたと思ってやってみるっぺ。」と思いを込めた返事を返してくれた。
運動はいまだに続いている。いまだに車椅子生活を送られている。
そんな状況でもNさんは私にこんなひと言をくれた。
「俺、もう家に行かなくていいから。いやいやそうじゃなくて、やることが嫌になったんじゃなくて、ただここが良くなったんだ。心配してくれるあんたがいるここがいいんだ。これからも頼むわ。いいばい?」
「喜んで。」
それ以上言葉が出なかった。
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